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2016.04.09

北見観光マスターピエの『北み国から』


第二回『囚人道路』

 明治の時代になり、今の北見市の辺りは野付牛という地名が付けられましたが、明治30年に皆さんがよく知る『屯田兵』や『北光社』がこの地に入ってくるまではまだ数十年の時間が空くことになります。

それまでは、鬱蒼とした森の続く大自然にアイヌが所々に集落を作って生活をしているだけでした。
そんな中、明治政府は北海道の開拓、ロシアに対する国防の為に北海道の中央部を札幌から網走まで貫く道路の建設を決めます。

中央道路

そして、この道路の建設の為に明治23年に網走に監獄を設置し、その労役に囚人を当たらせることにしました。
囚人を使う理由をこのように述べています。
『彼らはそもそも凶悪犯であり、死んだところで一般の工夫が妻子を残して死ぬより良い、賃金も一般の工夫の半分以下で済むし、例え死んだとしても監獄費を抑えるためにも一挙両得である』ブラックですねぇ、、

こんな方針の下に翌年から工事が始まりました。

この工事は明治24年、雪解けを待って4月に網走から始まり、その年の内に今の白滝の北見峠までの約180kmを開削するという過酷な工事となりました。
これは当時の北海道における一般的な道路工事の5倍の早さです。
重機も何も無い時代に人力のみで、密林を切り拓く作業は、今の自分達には想像出来ませんよね。

この年は雨の日が多く、工事が進むにつれ野菜や魚などは網走から届かなくなり、米と味噌くらいしか食べるものは無くなり、ビタミン不足からくる水腫病になり多くの囚人は動けなくなり死んでいきました。
あるものは逃走を図りましたが、この当時、例えこの作業を逃れたとしても、密林を彷徨い死を迎えたことだったでしょう。
工事の途中で死んだ囚人は道端に埋めていったと言います。

その一つが端野の鎖塚です。

瀬戸瀬辺りから白滝までの作業は過酷を極め、特に多くの死者が出たと言います。
最後は看守も囚人も作業方法を一緒に考え、互いに『網走に帰ろう』と、励まし合いながら昼夜を問わず作業に当たったそうです。
そうして、この年の10月、雪の降り始めた頃に北見峠までの全行程を完遂し、この中央道路は完成しました。
この工事は看守、囚人約1500名が当たり、死亡者230名余り、疾病者約900名を出すという日本史上最悪の工事となりました。

180kmで230人

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この地方には約800メートルに一人の遺体がいまだに眠ってることになります。

これが明治24年の事です。

その6年後の明治30年に、この道を歩き北見市の開拓を担う『屯田兵』と『北光社』の人達が入地することになります。

人々はこの中央道路の事をいつの日からか『囚人道路』と呼ぶようになりました。

今ではこの名も知れない囚人達の霊を慰め、この偉業に対する感謝の気持ちを込め多くの慰霊碑が
かつての中央道路沿いに建っています。

北見観光マスターピエの『北み国から』

三浦  隆浩

通称ピエさん。サイケデリックマスターであり、北海道 観光マスター!定休日の月曜日には毎週大冒険を繰り広 げる。市内の全公園制覇の偉業も達成!!

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