北見の話をする上で欠かせないのがハッカの話ですね。
自分も北見に来る時は『北見はハッカが有名だよ』と言われました。
しかし、いざ北見に来てみるとハッカなんて何処にも無いじゃありませんか!!
そう、今では北見ではほとんどハッカを作ってません。
しかし北見のハッカは全盛期には世界シェアの7割を生産してました!!凄い!
ここまで隆盛を誇ったハッカが何故消えたのか、北見のハッカの栄枯盛衰物語です。
北見のハッカの生産の始まりは明治34年頃と言われてます。
明治34年といえば開拓の初期ですね。
その後、急速にハッカの栽培はこの地方に広がっていきます。
その理由は、この地方の気候に合っていたこと、そして何より運びやすく高く売れたことが挙げられると思います。
当時、農民は収穫した農産物を売るためには港のある網走まで運ばなければなりませんでした。
しかし、道は悪く馬で何日もかけて運んだ豆や小麦もそう高く売れるものではありませんでした。
その点ハッカは蒸留して油にするとコンパクトになり運びやすく、しかも一反(10アール)当たりの小麦や大豆は4円にしかならないのにハッカは30円で売れました。
なんと7倍以上!!
運賃も安く高く売れる、農民は競ってハッカを栽培するようになっていくのでした。
それに目を付けたのは大手の商社でした、商社は農民から安く買うためにあの手この手を使って買い叩く、農民も毎日変わる相場を見て売り時を考える。
大金を手にした農民はあちこちでお金を使う。
なんだか今の株取引みたいですね。
そんなやりとりが毎年繰り返されて、北見はハッカ景気に湧き上がります。
北見の人のギャンブル好きはこの遺伝子かな??
大正時代の北見は日本でも有数の勢いのある街だったと思います。
その後、昭和8年にはホクレンのハッカ工場が建設され北見で加工、輸出まで出来るようになりました。
この工場の事務所が今のハッカ記念館となってます。
そして昭和14年には世界シェアの7割を占めるまでになりました。
その後、戦後にはブラジル産のハッカが台頭し、昭和46年には石油原料からの合成ハッカが完成し北見のハッカは急速に衰退していきました。
そして昭和58年には北見ハッカ工場が閉鎖、ここに北見のハッカの歴史は幕を下ろしたのでした。
まさに栄枯盛衰物語ですねー!
今日も道端に目をやると野生に帰ったハッカがあちこちで花を咲かせてます。